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独裁者 (映画)

『独裁者』(どくさいしゃ)または『チャップリンの独裁者』(原題:The Great Dictator)は、チャールズ・チャップリンが監督・製作・脚本・主演を務め、アドルフ・ヒトラーとナチズムの風刺を主なテーマとしたアメリカ映画である。

1940年10月15日にアメリカ合衆国で初公開された。1940年当時、アメリカはナチの戦争とはいまだ無縁であり平和を享受していたが、この映画はそんなアメリカの世相からかけ離れた内容だった。ヒトラーとナチズムに対して非常に大胆に非難と風刺をしつつ、ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコミカルながらも生々しく描いている。またこの作品は、チャップリンの「最初のトーキー作品」[1]として有名であり、さらにチャップリンの作品の中で最も商業的に成功した作品として映画史に記録されている。

初公開当時ナチス・ドイツと友好関係にあった日本では公開されず、日本初公開はサンフランシスコ講和条約締結から8年後の1960年であった。

あらすじ
映画は第一次世界大戦における戦場の場面から始まる。チャップリンは、架空の国、トメニアの陸軍に所属する無名の二等兵(以下、役名を「床屋のチャーリー」とする)として登場する。戦線において、床屋のチャーリーは士官のシュルツを救出するとともに、シュルツが所持している重要書類を本国に届けるべく飛行機で本国に向うが、2人の乗った飛行機は燃料切れにより墜落してしまう。シュルツは生き延び重要書類を届けようとするも、トメニアが敗戦したことを知り大いに悲しむ。一方、床屋のチャーリーは記憶を失い、以後の20年を病院で過ごすことになる。この20年の間にトメニアは政変が起こり、アデノイド・ヒンケルが独裁者として君臨し、ガービッチ内相兼宣伝相(ヘンリー・ダニール)とヘリング元帥(ビリー・ギルバート)の補佐を受けつつ、自由と民主主義を否定し、国中のユダヤ人を迫害した[2]。

一方、記憶喪失になった床屋のチャーリーは病院を抜け出し、ゲットーにある自宅に戻ってくる。しかし、本人は20年の時間の経過を理解しておらず、そのため現在の政治状況がわからなかった。そのため、ヒンケルの手先である突撃隊が自分の店に「ユダヤ人のレッテル」として塗ったペンキを消そうとして、突撃隊に暴力を振るわれたとき、なぜそうなったのかを理解できず、突撃隊に反抗したところ、突撃隊に私刑を受け、絞首にさらされようとした所に、かつて命を助けたシュルツが偶然に通りかかる。シュルツはヒンケルの信頼も厚く、今では突撃隊長となっていた。床屋のチャーリーがユダヤ人と知って驚いたシュルツであったが、以前助けられた恩から、突撃隊に床屋のチャーリーと彼の恋人であるハンナをそっとしておくことを部下に命じた。

ヒンケルはオーストリッチ[3]侵略を試み、ユダヤ系の金融資本から金を引き出すため、ユダヤ人への抑圧政策を緩和した。これらの状況に、ゲットーの住人はヒンケルが自分たちに市民権を返してくれるのではないかという淡い期待を持った。しかし、資金援助を断られたヒンケルはユダヤ人に対して怒りを露わにし、シュルツにゲットーを襲うように命令する。これに対し、シュルツはユダヤ人迫害は党の利益にならないと反対したため、ヒンケルはシュルツが気が変になってしまったと思い込み失望するとともにその役職を解き、強制収容所にぶち込んでしまう。そして、ラジオ放送においてユダヤ人への怒りを露わにした演説(?)をし、ユダヤ人迫害を強化する。

シュルツが捕まったことを知った突撃隊は、床屋のチャーリーを捕まえようとゲットーへの襲撃を行い、床屋のチャーリーの店は破壊されてしまう。これらを受け、ハンナは隣国オストリッチへの亡命を促す。

強制収容所から脱出したシュルツは、ゲットーに逃げ込みヒンケル体制の転覆を計画したが、結局捕まってしまい、強制収容所に送り込まれてしまう。また、ハンナら床屋のチャーリーの近所の人たちはオストリッチへ亡命同然に避難をし、オストリッチでヒンケルに迫害されない新たな生活を迎えようとしていた。

しかし、世界の皇帝として君臨する野望を抱くヒンケルはオストリッチへの侵略を諦めていなかった。ヒンケルのオストリッチ侵略計画は、近隣国バクテリアの独裁者であるベンジノ・ナパロニ[4]によって反対され、2人の指導者同士で暫しの摩擦(および食べ物を使った喧嘩)があるも、駆け引きをし、ヒンケルは狩猟旅行の名目でオストリッチ侵略を行った。オストリッチに脱出していたハンナたちは、再び自身がヒンケルの支配下に置かれ、深い悲しみと絶望の淵に追い込まれることになった。

シュルツと床屋のチャーリーはトメニアの軍服(ナチスの鉤十字に似せた双十字が特徴。英語の"double cross"には「裏切り」の意味がある)を着て、強制収容所から逃げ出した。このとき、床屋のチャーリーのヒンケルの外見とそっくりだったこと、ヒンケルに重用されていたシュルツを従えていたことから、国境監視兵は床屋のチャーリーをヒンケルと間違えてしまい、床屋のチャーリーを指導者として歓迎する。逆にヒンケルは、狩猟旅行の振りをしてオストリッチ国境付近で侵略の準備をしていたところを脱走した床屋のチャーリーと間違えられて配下の兵士に逮捕されてしまう。

床屋のチャーリーはヒンケルと間違えられたまま、トメニアの首都へ連れていかれる。ガービッチは、「ヒンケル」の演説の前に、言論の自由や民主主義を時代遅れの思想であると非難し、ユダヤ人や黒人は劣った民族であるとして市民権は剥奪されるとし、「ヒンケル」にただ服従することをオストリッチの住民に主張した。それに対し、床屋のチャーリーは、白人、ユダヤ人、黒人との和解、相互理解を主張し、自由や民主主義は決して死なないと主張し、独裁者は機械のような心を持っているとし、兵士に対し、人間であるのならば、独裁者に従うなと主張し、ガービッチの主張とは全く逆のヒューマニズムに基づく演説を行い、オストリッチの民衆から拍手を受ける。そしてハンナに対して励ましのメッセージを優しく語りかけ、ハンナがそれに「聞いているわ」と応えるところで幕となる。

キャスト
チャールズ・チャップリン - 独裁者アデノイド・ヒンケル&ユダヤ人の床屋
ポーレット・ゴダード - ハンナ
ジャック・オーキー - ベンツィーニ・ナパロニ
レジナルド・ガージナー - シュルツ中佐
ヘンリー・ダニエル - ガービッチ内相兼宣伝相
ビリー・ギルバート - ヘリング元帥
モーリス・モスコヴィッチ - ジェケル
エマ・ダン - ジェケル夫人
カーター・デ・ヘイヴン - 大使
チェスター・コンクリン - ユダヤ人の床屋の客
レオ・ホワイト - 総統付床屋
ハンク・マン - 突撃隊員

独裁者にまつわるエピソード
映画にあるゲットーにおいて英語のスペルにおいていくつか誤りの見られるところがあるが、これについて英語版Wikipediaの項目ではエスペラントをイメージした言葉ではないかとあり、エスペラントを発明したザメンホフがユダヤ系であることとの関連を指摘している。

もともとチャップリンは、「モダン・タイムス」の次回作として女密航者を主人公にした映画(ポーレット・ゴダード主演。1967年制作の「伯爵夫人」の原案となる)、ついでナポレオン・ボナパルトを主人公にした映画を構想していた。後者においては、ナポレオンが影武者と入れ替わってセントヘレナ島を抜け出し、市井の教師ナポレオンとなって革命に参加するも、島に残した替え玉が死んで、最後は悲劇的な結末を迎えるというものであった。どちらも、時勢を鑑みるとあまり適当でない作品と考えられた。そこで現代に即し、ナポレオンをヒトラーに代えて映画を作ることとなった。チャップリンは例によってこの映画の脚本・監督をつとめ、チャップリン・スタジオに加えて、ローレル・キャニオンなどロサンゼルス近郊の各所で撮影された。もちろん、この映画のアイデアは『チャップリンの放浪者』とヒトラーとのキャラクター上の類似から発展したものである。ユダヤ人の友人や同僚から聞き及んだ、1930年代を通じてエスカレートするナチスのユダヤ人迫害もモチベーションとなった。最終的に制作を決断したのは、アレクサンダー・コルダのプランを受け入れてからであった。チャップリンは1938年から1939年にかけてストーリーを制作し、1939年9月、第二次世界戦争勃発後2週間後から撮影を開始した。撮影を終了した六ヶ月後にはフランス第三共和政がナチスによって陥落している。制作中に起こったヨーロッパでの惨事が、賛否両論を生んだ終盤のスピーチを挿入する動機となった。なお、チャップリンは「街の灯」以降自分で音楽も作曲していたが、今回に限っては気に入らないところの撮り直しもあって時間的に作曲の時間が立てられず(クランクアップ後、たっぷり時間をかけて作曲と編集に集中するのがチャップリンのパターンであった)、作曲のほとんどはメレディス・ウィルソンに委ねられた。

アカデミー賞では作品賞と主演男優賞にノミネートされ、ジャック・オーキーは助演男優賞にノミネートされた。また、アメリカ国立フィルム登録簿にも登録された。この作品はチャップリンの最初の完全トーキー作品であり、20年代にサイレント映画は終わったと言われた中で公開された前作『モダン・タイムス』(1936)に対する、ラッダイト主義だという非難を払拭することにもつながった。

チャップリンとヒトラーとの間にはいくつかの共通点があり、チャップリンは1889年4月16日生まれなのに対し、ヒトラーは1889年4月20日とわずかに4日違いである。またトレードマークが口ひげであり、チャップリン自身ヒトラーの口ひげは自分のオリジナルキャラのチャーリーを下品にしたようだというイメージを持っていた。また、チャップリンはロンドンの貧しい家に生まれ、生活に苦労し、ヒトラーは生まれた家は中産階級で豊かだったものの青年期において浮浪者収容所で生活しているということ(これについては近年『我が闘争』でヒトラーが誇張したものであって、実際の施設である公共独身者合宿所は必要最低限の生活ができる施設であったという説が有力である)、また両人に一時ユダヤ人説が流れていたことで共通項が多いと見る向きもある。なお、ヒトラーはこの映画を2回鑑賞しているが、感想は遺されていない。2001年に製作されたドキュメンタリー作品『放浪者と独裁者』"The Tramp and the Dictator"でも、「ヒトラーは実際にこの映画を観た」というヒトラーの元秘書による証言が残っている。Internet Movie Databaseによれば、チャップリンはそれを聞いて、「なんとしても感想を聞きたいね」と答えたという。

また、ヒトラーは政治キャリアの初期においてすでに、映画界におけるチャップリンの人気に目をつけていたとする意見もある。“チャーリー”のキャラクターとヒトラーの類似はたびたび語られるところである。つまり、自らの知名度を上げるために、チャップリンと同じ四角い口ひげを生やしていた、というのである。

この映画の製作は、世界状況の緊張と軌を一にしている。『独裁者』だけでなく、『en:The Mortal Storm』や『en:Four Sons』(どちらも日本未公開)のような他の反ファシズム映画は、アメリカとドイツの中立状況の中ではリリースできないだろうと予測されていた。そんな中、チャップリンは財政的にも技術的にも他のスタジオから独立していたため、大々的に作品の製作を行うことができた。だが一方では、『独裁者』がリリース不可能になれば、150万ドルを個人資産から投資していたチャップリンは破産する、という状況でもあった。結局、『独裁者』は1940年の9月にニューヨークで封切られ、10月には拡大公開され、11月にはイギリスで公開された。パリの解放後間もない1945年4月にはフランスでも公開された。映画の内容から、当事国であるナチス・ドイツはもちろんナチス・ドイツの占領下にある地域、ナチス・ドイツと同盟関係にあったイタリアや日本、また親独政権が多かった南米や、中立政策を採っていたアイルランドでは上映禁止となった。これらの地域での封切り年は次のとおりである。ドイツ:1958年、日本:1960年(イタリアは不詳)。高見順は1941年にジャワ島で、小林桂樹は陸軍兵士としてシンガポールに駐屯した際、イギリス軍からの押収品の中に『独裁者』のフィルムがあり、それを見た。

それぞれ演じられているトメニアの独裁者とその側近などはナチス・ドイツの幹部の名前をイメージさせるものにしてあり、アデノイド・ヒンケル(Adenoid Hynkel)はアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)、ガービッチ(Garbitsch)はヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)、ヘリング(Herring)はヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)のもじりである。また、ベンツィーニ・ナポロニはベニト・ムッソリーニのもじりである。

『独裁者』は、発表と同時にアメリカで大人気となった。批評家の反応は様々で、特に終盤のチャップリンのスピーチを批判する者も多かった。喜劇化された突撃隊を、ナチスの恐怖を大っぴらに誇張していて不謹慎だとする意見もあった。だが、ユダヤ系の観客はユダヤ人のキャラクターとその絶望に深く感動した。当時のハリウッドでは、ユダヤ人に関することはタブーであったのだ。

チャップリンは後世、自伝においてホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれないと述べている。確かに、ホロコーストという状況の中でユーモアを導入する試みは、ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』までの半世紀の間は見られない。この映画が、実際の死の収容所が建設される約一年前に製作されたことは記録に値する。

当初、独裁者の最後は戦争が終わり、ユダヤ人と兵士が手に手を取って踊りを踊り、また中国と戦争をしていた日本も爆弾の代わりにおもちゃを落とし、中国との戦争を終えるという設定をしていた。しかし、チャップリンはこれでは独裁者に対する怒りを表現できないとして台本を変え、最後の6分間の演説となった。この6分間の演説について右翼勢力は共産主義者の陰謀であるとして強く反発し、またイギリス政府やアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは『独裁者』はアメリカの国益を損なうとしてチャップリンに対し圧力をかけた。

当時のアメリカはナチス・ドイツはドイツの経済復興を成し遂げ、国力を回復し、反共主義の国であるとして肯定的な評価をする傾向が強かった。また、1929年の大恐慌によってKKKを中心とした右翼が台頭し、黒人、ユダヤ人を迫害する風潮も強く、そのことも独裁者に対する反発を促進させることとなった。

一部のチャップリンの評論では『殺人狂時代』がアメリカ追放の原因であると論評しているものがあるが、チャップリンに対する政治上の反発は『モダン・タイムス』の頃、もっと遡れば第一次世界大戦の頃から上がっており、また以上にあるように最大の収益を上げた『独裁者』に対しても政治的圧力や反発があった。

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2009年01月05日 08:44に投稿されたエントリーのページです。

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