2009年06月25日

前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始

2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。 さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
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4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し(北欧侵攻)占領した。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。

5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグのベネルクス3国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。

ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大要塞・マジノ線を迂回。アルデンヌ地方の深い森を突破し、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ナチス・ドイツのフランス侵攻)、フランス/イギリスの連合軍を英仏海峡のダンケルクへ追い詰めた。 一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が妨害をしなかったため、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。

2009年06月10日

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英語:Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾[1]にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃である。

当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、マレー作戦に次いで開始された作戦である。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。世界史的には、この攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40センチ砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる。

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は異なる構想を持っていた。1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。
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当時数少ない海軍将官きっての航空通の1人であった大西は、ある程度骨子を作った後、2月に第1航空戦隊の参謀であった源田実中佐に山本の意向を伝えた。源田は1週間後、オール爆撃案と、雷爆撃併用案の2つの案を作り大西に示した。真珠湾への航空攻撃の成否を左右するのは雷撃が可能かどうかであった。真珠湾の平均水深は12メートルである。当時の航空魚雷は攻撃機が投下し着水した後、平均数10メートル以上沈んでから航走しつつ調停深度まで浮上してくるものであった。これでは投下した魚雷はことごとく真珠湾の海底に突き刺さってしまう。

結局大西と源田は当時海軍が保有していた正規空母4隻と軽空母「龍驤」を主力とした部隊を用いて、雷撃は諦めて攻撃隊は全て爆装とした上で、水平爆撃と急降下爆撃を行うという案を山本に提出した。水平爆撃に関しては当時既に長門型戦艦の主砲弾を改造した800キロ徹甲爆弾が完成しており、命中率は低いものの敵戦艦の撃沈は物理的に可能であったからである。これに対して山本は不満を表して「雷撃ができないのなら真珠湾攻撃は諦める」とまで言ったといわれる。そこで大西は雷撃に関しては攻撃前までに攻撃法を研究開発することにして、雷爆撃併用に案を改めた上で山本の了解を取り、軍令部第一部長福留繁少将に作戦準備を依頼した。

2009年06月06日

Adobe Flash(アドビ フラッシュ)は

Adobe Flash(アドビ フラッシュ)は、アドビシステムズが開発している動画やゲームなどを扱うための規格及びそれを制作する同社のソフトウェア群の名称。略称は FLASH、フラッシュ、Fl など。旧称は Macromedia Flash であり、かつての開発会社はマクロメディア。競合他社の類似ソフトにMicrosoft Silverlightがある。

ベクターイメージが規格の中心で、それにスクリプトで制御することによりマウスの動きに合わせてアニメーションしたり、音を鳴らしたりなど、インタラクティブなウェブサイトを作成するのに向いている。アニメーション、ゲーム、ウェブサイトのナビゲーション、音楽再生などのコンテンツを作るためのソフトウェア。再生環境への依存度が低く、ベクターイメージであるためウインドウサイズを変えても画質が劣化しないという特徴がある。

Flashを用いるとインタラクティブ性の高いウェブサイトにすることも可能だが、Webブラウザやプレーヤーからテキスト検索できないなどの欠点がある。ただし、Googleなど一部の検索エンジンは Flash内のテキストを抜き出して、検索対象とすることができる。

Flash 再生ソフトとしては主に Flash Player が使われる。Windows、Mac OS X、Linux などのオペレーティングシステム上で動作し、Internet ExplorerやFirefoxなどの代表的なWebブラウザの中でプラグインとして動作させることもできる。携帯電話機にもFlashプレーヤが搭載されているものがあるが、ハードウェアスペックやセキュリティーの配慮等により制限が多い(Adobe Flash Lite によるもの)。また、アドビシステムズは Flash をウェブ以外にも利用できるようにする意向を発表している。Flash のファイルフォーマットは仕様が一般に公開されており、アドビシステムズ以外の企業、個人でも Flash データを加工、生成するソフトウェアを自由に開発、配布することができる。しかし、仕様書に基づいてFlashファイルを再生するソフトウェアを開発することは認められていない。そのため、例えば Flash 再生ソフトである Gnash では、ウェブ上に存在する Flash を収集し、それらを解析することを通じて開発が行われている。その後ライセンスの変更が行われ、現在では互換ソフトの開発が可能になっている。
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企業や公的機関、歌手や個人のウェブサイト等においてトップページに使用されることが多くあるが、ナローバンドにおいてはダウンロードに時間がかかり、トップページにおけるFlashの使用を好まないユーザーもいる。 バナー広告やポータルサイトなどに使用されることもある。

あるいはインターネットコミュニティの参加者によって笑いネタ、時事ネタなどでジョーク的な内容のものが作られたりする。ただ、このようなFlashは著作権や肖像権(傾向として政治家やテレビアニメのキャラクターが多い)を侵害していることも多々ある(俗に黒フラッシュ・黒フラ・MADフラッシュと呼ばれる)。

特殊な使用方法としては歌詞等の著作権を保護するために、テキストをコピーしたり印刷したりできないようにすることができる。

2009年04月23日

荘園支配に侵入する

外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、蝦夷や海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている。諸国を旅する芸能民や遊行僧などが悪党的性格を持つとされていたのも同様の理由からだと考えられている。蝦夷、海民、芸能民、遊行僧らはいずれも荘園公領制的な支配体系の外部に生きる漂泊的な人々であり、支配外部にいることを示す奇抜な服装、すなわち異形の者が多かった。網野善彦は、これらの「悪党」が13世紀半ばから急速な成長を見せた流通経済・資本経済の担い手であり、中世社会の新たな段階を切り開いた主体の一つと説いた[3]。

支配体系外部からの侵略者のみを悪党と呼ぶ状況に変化が生じたのは弘安年間(1278年-1288年)のことである。この時期には荘園支配内部の対立関係がついに顕在化し、本所に対する荘官(=在地領主)層の抵抗活動が抑えられなくなり、本所と対立した荘官・在地領主層は本所から悪党と呼ばれ始め、本所との所領紛争を展開していった。武士階層に目を向けても、単独相続などにより所領を失った無足御家人が旧領に残留し、新地頭の支配を妨害して悪党と呼ばれる事例が発生していた。これらの状況は、内部の者も「悪党」として扱うことを示しており、観念の非常に大きな変化の現れであった。

この段階において、本所と対立した荘官層には、上に挙げた漂泊的な悪党も含まれていたと考えられている。彼らの中には、各地を往来しながら交易にたずさわり、流通経済の担い手として資本を蓄積し有徳人と呼ばれる者もいた。そうした有徳人が経済力を背景として荘官に補任され、所領経営に乗り出す例もあったのである。また、在地の荘官と対立した本所は、荘官に頼らず、独自に年貢物資を運搬する流通経路を確保する必要に迫られていたが、ここで年貢物資流通を担ったのが漂泊的な悪党なのであった。

13世紀後半以降、悪党は畿内・東北・九州などで活発に活動し、御成敗式目で禁止されている悪党と地頭の結合など見られるようになった。悪党の活動は支配体系の流動化を招き、幕府はこれに対応するため、13世紀末から悪党鎮圧へ積極的に取り組み始めた。

元々、本所一円地における警察権・司法権は本所の所管であり、朝廷が裁定することとなっていた。しかし、悪党の著しい横行により本所は幕府へ鎮圧を強く要望していった。そこで、1290年代前半になって確立されたのが次の鎮圧手続きである。まず本所が朝廷へ訴えを起こし、朝廷の召喚に被告人(=悪党)が応じない場合は、違勅があったとして朝廷から幕府へ検断を命じる。このとき幕府が受ける命令を違勅綸旨または違勅院宣という。綸旨・院宣を受けた幕府は御家人2人を使節に任じた(両使)。両使には、任務遂行のため、守護不入とされている本所一円地への入部が許されており、さらに本所側へ下地遵行を指示する権限が与えられていることもあった。悪党追捕のために始まったこの手続きは、室町時代の使節遵行権の根源となった。

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この時期の著名な悪党が、12世紀から14世紀にかけて東大寺領黒田荘(伊賀国)で活躍した「黒田悪党」大江氏である。12世紀から代々と同荘下司職を勤める大江氏は、13世紀後半に黒田荘への支配権を強化しようと画策し、東大寺と対立してついに悪党と呼ばれるようになり、最終的には東大寺の要請を受けた六波羅探題に鎮圧された。しかし、代わって同荘荘官職についた大江氏一族もまた、年貢納入を行わないなど東大寺との対立を深め、供御人と称して朝廷と直接結ぼうとし、これを鎮圧するはずの伊賀国守護、同御家人らと結んで、黒田荘を実質的に支配するに至った。結局大江氏は六波羅探題に再び鎮圧されたが、ともかくも、この事例は経済的な成長を果たそうとしている在地領主が荘園領主の抑圧を受けたときに悪党となることを示した典型例である。このほか、鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成(河内国)、赤松氏(播磨国)、名和長年(伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている。

悪党は南北朝内乱期にも活動しているが、内乱が終わった14世紀後半、悪党活動によって荘園公領の支配体系が弱体化し、守護や国人らによる本所一円地(=荘園)への侵略が進むとともに、本所側の対抗力が衰えてしまうと、本所の支配を侵す悪党という実態は、次第に見られなくなった。

悪党概念は、1930年代に中村直勝によって提起され(『荘園の研究』 1939)、戦後になると石母田正(『中世的社会の形成』 1946)らによってその姿が明らかにされていった。

戦後の歴史学において、悪党は封建領主制のなかで位置づけられていたが、網野善彦、佐藤進一らが社会的基盤を農業以外に置く手工業民や芸能民などに着目した中世史像を提示すると、悪党の存在もそれらと関連付けて論じられるようになり、20世紀末からは海津一朗らによって元寇や徳政令等の社会変動における悪党の位置づけが試みられている。

2009年04月19日

地中海世界

地中海世界(ちちゅうかいせかい)とは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、西アジアのあいだに挟まれた「地中海」沿岸の領域を指す。地理的な領域であるが、この領域は太古より様々な文化や民族の相互交流が絶えず、とりわけ古代から中世初期にかけては一つの独自な文化圏を形成していた。

地中海世界は、北アフリカと、パレスティナ沿岸より小アジア、そしてギリシアと今日の西欧から成り立つ。大きく分ければ、1)北アフリカ、2)パレスティナ・小アジア、3)西欧という三つの領域になる。これらの三つの領域には、太古より文化が存在し、様々な民族が居住し、陸路と海路を伝って互いに文化交流が存在したことが知られる。

先史古代
紀元前6千年紀から5千年紀には、北アフリカには農業生産を主体とする定住文化集落や都市の原型が確認されており、これらを継承して紀元前3千年紀となってエジプト統一帝国(古王国)が成立したとも考えられる。小アジアには、北アフリカと同じぐらいに古い定住文化集落が存在しており、紀元前2千年紀頃にはヒッタイト帝国が成立するが、それ以前にも多数の都市国家が存在した。

西欧領域では、紀元前3千年紀頃より印欧語族の進出が著しくなったが、考古学的資料等からは、印欧語族以前にこの領域には先住民族の文化が存在したことが知られている。その為、例えばギリシアでは、ギリシア人は紀元前2千年紀頃より数度にわたり波状に南下して行ったが、すでに先住民族とその文化が存在しており、この古い文化は古代ギリシア文化のなかに取り込まれた。

ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

しかし、紀元前2千年紀となると地中海世界では陸路を通じてではなく、むしろ海路を通じての文化的政治的な相互作用が活発となり、エジプトはクレータのミノア文明と交流を行っており、また古代ギリシア人は地中海世界のヴァイキングのような形で、各地に遠征し略奪戦争を行った。その一つはホメーロスがうたった「トロイア戦争」であると考えられる。ただし、トロイエは東西の交流の要衝にあった為、考古学的に、幾度も戦役に見舞われ、都市は破壊され、再度構築されてきたことが確認されている。

古代
海の民の活躍などを含め、紀元前2千年紀半ば以降になると、アフリカにはエジプト新王国が威勢を持ち、小アジアにはヒッタイト帝国が覇権を唱えた。またギリシアでは、古代ギリシア人は植民地を小アジア及びイタリア半島南部に拡散させ、パレスティナ沿岸部では、中小地方国家群が成立して覇権を争った。またフェニキア人は北アフリカからイベリア半島まで植民地を築き、地中海交易で大きな勢力を築いた。
エジプト及びヒッタイトは紀元前1千年紀になると衰退し、ギリシア人及びフェニキア人が海路を通じての交易で勢力を更に伸張させた。その他方、紀元前1千年紀半ば頃にはローマ人の勢力が徐々に拡大して行った。また、この時代においては、イランに起こったアケメネス朝ペルシア帝国の威勢がメソポタミアを征服して地中海沿岸まで進出し、古代ギリシアのポリス連合群はアケメネス朝の進出を阻止しようとして、ここにペルシア戦争が生じ、アケメネス朝は敗退して後退した。

ペルシア戦争の勝利の後のギリシアはしかし、覇権をめぐってポリスのあいだで争いが生じ、アテナイ、スパルタ、コリントスと有力ポリスにより覇権が推移して行った。ギリシアにおいて内部紛争が進行しているあいだに、共和政ローマは勢力を拡大し、イタリア半島を支配下に置くと共に、更に周辺領域へと勢力を展開して行った。この過程で、第一次、第二次のポエニ戦争が起こるが、ローマはこれに勝利し、カルタゴなどのフェニキア人植民地を傘下に収め、北アフリカのマグレブ領域からイベリア半島に渡る領域に勢力を拡大して行った

2009年04月04日

対象物(力士など)を順位によって並べる

番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。

対象物(力士など)を順位によって並べる。この順位は、最も新しい結果を反映させる。
大きくランクに分ける。いわゆる横綱から序ノ口までのような段階に分けてある。この区分は総合的な評価によって行なわれ、勝負結果などを単純に反映しない。紙上での表記にその差は反映され、格が上の力士ほど字が大きく、立派に描かれる。
全体を東西に分け、紙面上ではそれを左右に振り分け、ほぼ同格のものを対称の位置に並べる。
その面白さのために、他の分野でも同様の物が作られる。例えば古典園芸植物では、江戸時代後期より、多くの植物でそれぞれ番付が作られ、現在もあちこちで出版されている。もっとも、長者番付などは番付と言いながらも、単なる順位表となっている。


大相撲の番付 [編集]
「1枚違えば家来同然」「1段違えば虫けら同然」などの言葉に代表されるように、大相撲の世界で番付は絶対的なものである。番付上の地位の区別がより明確になったのは1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。

東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載されたのは1890年5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(慶応4年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表したのは大坂でこのときが初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月?1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年7月?1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月?1874年6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。

近年、珍しい巡業番付が発見された。弘化・嘉永年間(1845?1854年)で、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州に留まり、その際に興行されたときの巡業番付である。驚くことに東方の欄外に、稲妻の地位の部分に「横綱」の文字が刷り込まれている。また「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。

番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、野球で言う永久欠番に近い形で廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄や準年寄は別にして)現在の数(105)に定まった時でもある。

本場所興行の際、東京(1月、5月、9月)場所では国技館の櫓の中ほどに、その他の地方場所では開催会場の入り口付近に「板番付」が興行する場所に宣伝として掲げられる。板番付は紙番付よりも歴史は古く、興行地において力士の顔ぶれを記したいわば立看板的な役割を果たしていた。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。

1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られた。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるので巡業番付は作らない。

相撲部屋の稽古場の壁に下げられる木製の札を「番付札」といい、一枚ごとに所属部屋力士の四股名が書かれている。横綱を先頭にして地位の順に並べられる。部屋によって並べ方が違うが、親方(年寄)、行司、呼出、床山の名も同様に並べられる。歴代の関取の四股名を揚げている部屋もある。


番付を編成する [編集]
番付は各場所後に審判部長を議長とする番付編成会議で作成される。編成会議は場所後3日以内に開くことが定められており、通常水曜日に開かれる。[1]会議には審判部副部長、審判委員、監事が出席し、書記として行司も同席するが、発言権はない。近年は審判委員の所属部屋の力士が優遇される傾向にある。このため明らかに不自然な編成がなされる場合もある(例としては2006年(平成18年)11月場所の片山、2007年9月場所の千代白鵬、同11月場所の春日錦等。)。これに対し審判部は「番付は生き物」であるとの見解を示し、事実上批判を封じている。

編成された番付は、翌場所前の番付発表をもって発効する。1970年(昭和45年)から番付発表を従来初日の8日前の土曜日に発表していたものを、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、本場所初日の13日前の月曜日発表に変更された。発表は本場所初日の13日前(月曜日)が多いが、1月場所はそれより早まる。新横綱、新大関に対しては昇進伝達式を行い、該当の力士はこれをもって横綱、大関として遇されることになる。十両昇進力士に対しても、あらかじめその旨伝えられ、相撲協会のHPでも公開されるが、これは待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮したもので、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。十両昇進力士の事前発表は1971年(昭和46年)からはじまった。こうした例外をのぞいて、新番付の内容は正式な発表まで伏せられる。

ただし雑誌『NHK大相撲中継』(番付発表前に発売される場合が多い)の力士一覧における幕内力士の顔ぶれは実際の番付とほぼ完全に一致している。また放送予定表では新三役力士がいる場合、中入後企画「新三役紹介」に三役昇進力士の名が記載されており、こちらも実際の昇進力士と一致している。このことから同誌編集部は事前に番付についてある程度の情報を得ているものと思われる。

なお、地方巡業が現在のように相撲協会主導の「大合併」でなく、一門ごとに別れて行われていた時代には、一門内の最上位力士を大関とした巡業用番付も作成された。引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。


番付を書く [編集]
江戸時代中期の元禄年間(1688?1703年)には、歌舞伎、寄席、相撲の看板はいずれも御家流(青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王の書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年(宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(1789?1800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる。番付を書くのは行司の役目である。番付の書体は相撲字という独特な字体(根岸流)で書かれる。「高」の字をはしご高(?)で書くことがあったり、バランスをとるために〈木へん〉をかんむりのように書く(松→枩などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや虫眼鏡が無ければ読めないほどである。現在番付を書いているのは幕内格行司木村恵之助で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫より受け継いでいる。戦後以降の番付を書いてきた行司(全て番付を書いた時の行司名)は5代式守鬼一郎、5代式守勘太夫(6代鏡山勘太夫)、10代式守与太夫、6代木村庄二郎、2代木村容堂、10代式守勘太夫で、恵之助で戦後7人目となる。ずっと以前は番付の版元だった根岸家が書いていたが、子息の代になって相撲字が苦手で年寄名跡を返上した。

行司が書く番付(原版)を「元書き」といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)に、鯨尺で「横綱」が幅7分5厘(約2.8cm)、「大関」が6分5厘(約2.5cm)、三役が5分5厘(約2.1cm)取って、残りを平幕の枚数で割る。書く順序としては、まず線引き(枠書き)をして、最初に書かれるのが枠外左下に「平成○○年○○月○○日発表 不許複製」(以前は印刷日も書かれていた、「不許複製」の文字は昭和40年代頃より書かれる)、序ノ口を左から書いて序二段、年寄ほか(「千穐万歳大々叶」「此外中前相撲東西ニ御座候」の文字、特等床山・呼出・世話人・若者頭も含む)、中軸(「蒙御免」の文字、開催年月日と開催場所、行司、審判委員など)、三段目、幕下、十両、幕内、張出があった頃は東の張出を最後に書く。左から右へ、下段から上段へ書いていく。張出の枠は、枠内の地位が書いてある位置から、枠外に張出の枠を設けるので、枠の高さが枠内より若干低くなる。番付の横(幅)の寸法は張出があると、張出がある分だけ枠外の寸法も含まれるため、張出(枠外)がある番付とない番付では、枠内の幅の寸法が変わってくる。張出が多いと、それだけ番付枠内の幅が狭くなるので、張出がない番付より若干文字の幅も狭く書かれるようになる。張出大関や張出関脇が東西にある場合は、枠外に張出の枠、大関・関脇を並べて書く。さらに張出小結などがある場合は、さらに枠を並べて書く場合と、二段目の枠外に書かれることもある。張出の有無に関わらず一人横綱の場合は、横綱を東の枠外に張り出して書かれる。このとき他に張出がある場合は、他の張出の枠より若干大きく設け枠内の高さに揃える。「横綱」の文字・出身地・四股名は枠内および他の張出の文字の高さに揃えず、高く大きめに書かれる。横綱が3人以上(東西の正横綱および張出横綱)で大関以下に張出がある場合は、張出横綱の枠を他の張出の枠の高さに揃え、文字も枠内および他の張出の文字の高さに揃えて書かれる。原版の「元書き」は、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に展示される。享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている)や明治以降には写真番付も製作された。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後柏鵬時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。前述の板番付は縦横が各1.9mあり、幕下格行司と三段目格行司が3人がかりで4?5日かけて書き上げる。場所が終わるとかんなで削って文字を消し、また同じ板に翌場所の番付が書かれる。

番付には力士名の他、年寄(現在は「理事」、「監事」(2008年(平成20年)11月場所より表記を「副理事」に改称)、「役員待遇」、「委員(審判委員を含む)」(年寄のうち期間限定の一代年寄である栃東は委員待遇)、「主任」、「年寄」、「準年寄」に分けられる。以前は「取締」、「参与」があった。審判委員は1968年(昭和43年)の機構改革前には「勝負検査役」と番付に書かれていた)、行司、呼出、若者頭、世話人の名も記される。番付上では、横書きで書かれる文字はすべて右から書かれている(「司行」、「事理」など)。1994年(平成6年)1月場所と3月場所の二場所、立行司(木村庄之助、式守伊之助)二人の名前が消えたが大相撲史上初めてであった。若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。このとき、記入スペースを確保するために、それまでの張出の制度を休止して、横綱・大関・三役がそれぞれ3人以上になっても、すべてを枠内に書くこととした(しかし、当時一人横綱の曙に関しては同年11月場所まで東の枠外へ張り出された。また、2004年(平成16年)1月場所から2007年5月場所まで一人横綱だった朝青龍は張出はされず枠内に書かれている)。2004年3月場所より審判委員を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「木戸部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年(大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789?1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。

また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年以降では境川尚、時津風勝男)されることもある。

各力士の上に書かれる出身地は、江戸時代はお抱え大名の地域であることもあったが、明治以降は旧国名となり、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地が表記され、1948年5月場所より都道府県の表記となった。ただし、幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉または〈東京〉の表示でまとめられることも明治期まではよくみられた。

なお、中央に「蒙御免」(ごめんこうむる)とあるのは、江戸時代に大相撲が幕府の認可のもとで興行をおこなっていたなごり。「此外中前相撲東西ニ御座候」は、番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され、前相撲が現在も残っている。

1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。

ワンス ボデオ モンクレ シガト ドレア パーコレ スタート メジャー ピーエイ ソフトダ ロッド たむぽえ フレム パンジー 羅生門 ブリスベ 便利に イチゴ ストッ ニット えいか ハンド ジース カーネリ ドラー あいら パンゲア オブラ ジンサ スカジー ドルペッグ うたまくら えいこう モルディブ たいゆう ニオブ 美女と野獣 ドーマ トップ トパイ ダウンベ ナビルポ ナトリ ろぎょ オーニソム 雪舞い マルチ タイトルラ トリ キャメ

2009年03月20日

列車名称の由来

あさかぜ…「朝に吹く風」というさわやかなイメージから。列車愛称の選定に際しては、「夜行列車は天体にちなむ名前」となっていたが、同時に「特別急行列車では鳥ないしは自然現象に由来するものまたは、日本を象徴するもの」となっていた。そのことから「特別急行列車」という点を意識したものが重視された。
●:停車。↓・↑:通過(矢印方向に運行)。※:臨時停車。(運):運転停車。▽・△:下りは岩国駅 - 下関駅間、上りは下関駅 - 広島駅間において立席特急券でB寝台を普通座席として利用できた(寝台券も参照)。

使用車両等 [編集]
使用客車:24系25形客車
編成の詳細は、廃止直前の編成を参照されたい。また下記の編成中、改造車についての詳細は、こちらを参照されたい。
末期にはJR西日本下関地域鉄道部下関車両管理室所属の車両が用いられた。

車両編成の歴史 [編集]
バニラ ラバー 野かんぞう シバナ ナムル 青じそ ネムノ マンナン シュミー 春の小川 スキル マルシー フライ イノベー フェロール ウシカ おすすめ ライフ シュー スタイ ラードダ カタクリ 桜桃 ステッカ バイオ ドリフト テキス サイト刈穂 ルクラス シャンパン ピン幸運 ドラキュラ ヨード パレス トレー しりもち くさなぎ アックス すたー るはーぶ ワイルド ぴおーね 天使のア シスタ リライト ランス ナルキ サイバ グロブリン ポイント

等級の表現と各車種の座席種類について [編集]
旧国鉄では1960年(昭和35年)6月30日までは三等級制度下で、1969年(昭和44年)5月9日まで二等級制度下で運賃・特別急行料金・寝台料金が決められていた。その為、時期により「一等車」・「二等車」の定義が異なるが、おおむねこの表に則っている。

しかし、1960年6月30日までの二等寝台車および1969年5月9日まの一等寝台車場合、ABCの三段階表記を使用するため、単一運賃制度を採用した1969年5月10日以降のA寝台・B寝台との混用を避けるため、1960年6月30日までの二等寝台車については「二等寝台車(A)」、「一等寝台車(A)」の様に表記する。

2009年03月05日

ラミアー

ラミアは、ギリシア神話に登場する人物、もしくは怪物。ギリシア神話中には以下の5つが登場するが、しばしば混同される。
子供をさらうという怪物。ベロスとリビュエの娘。本項で詳述する。
ポセイドンの娘。ゼウスとの間にリビアの巫女シビュレを産んだ。
子供の血を吸うという複数の女の怪物(吸血鬼)。
デルポイの怪物シュバリスの別名。アルキュオネウスが生け贄として捧げられた。
レスポス島の子供をさらう若い女の幽霊ゲローの別名。
ブルガリアの民話に登場する怪物。
ラミア(ラミアー、希: Λαμία Lamia)は、ギリシア神話に登場する人物、もしくは怪物。

海の神ポセイドンの息子ベロスとその母リビュエとの間の娘。元々はリビアの女王であったが、その美貌でゼウスに見初められた。結果、ゼウスの妻ヘラの怒りを買い、ゼウスとの間に産まれた子供を全て殺され、自身も怪物に変えられてしまった。

ヘラの呪いはそれだけでは終わらず、子供を失った悲しみから常に逃れられないよう、眠りさえも奪われてしまった。ゼウスは彼女が休めるよう、目を取り外して眠れるようにしてやったが、子供がいる他の母親を羨むあまり、ラミアは他人の子供を食べるようになってしまった(他にも、生まれてきた子供を喰う呪いをかけられ、その後上半身が女性で下半身が蛇の怪物になったという話や、ヘラに子供を殺されてしまい、哀しみのあまり怪物と化したという話もある)。

彼女は多くの場合、女性の頭と胸に、蛇の下半身を持つという姿で描かれるが、時には、男性として描かれたり、両性をもつ者として描かれることもある。人語は話せないが、代わりに美しい口笛を吹いて人を虜にする。

ジョン・ランプリエールは『ギリシア・ローマ事典』の中で、ラミアは、声は魅力的だが子供たちを殺す小さなアフリカの怪物ラミアイ(Lamiae)の原型になり、そしてそれが現在レムレス(Lemures)と呼ばれているものである、と主張した。
バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

歴史上では、母親たちが子供への脅しに使うこともあり、子供が悪いことをすると「○○をするとラミアが来るよ。」と言う風に使われた。

名前は「貪欲」を意味するラミュロス(希: λαμυρός)からきていると言う説がある。同じ語源からレムレスがきているという説もあるが、確かではない。

ポセイドンの娘でシビュレの母であるラミアともしばしば混同される。また、ラテン語に入ってからは、女の吸血鬼を意味するようにもなった。

レイミア
ジョン・キーツは生前の1819年に出版した詩集『レイミア、イザベラ、聖アグネス祭前夜その他の詩集』に「レイミア」というラミアの伝説に基づく詩を書いた。これは、ロバート・バートンの『憂鬱の解剖学』の第3部第2節第1条第1題の逸話、ジョン・ランプリエールの『ギリシア・ローマ事典』(、ジョン・ポッターの『ギリシア古俗』)に基づいている。その内容は「レイミア(ラミア)と人間の恋物語(異類婚姻譚)である。

蛇女伝説
ラミア伝説が東洋に伝来し中国の白蛇伝の基になったとの説が唱えられている。

2009年02月13日

ショコラ 〜maid cafe "curio"〜

主人公である結城大介はある朝、突然の事実を知らされることになる。それは、父親が再婚し新しい家族が増えたこと、そして現在新婚旅行で成田から電話をかけていること、これから3ヵ月も店を空けることだった。その際、父親が経営していたアンティーク喫茶店「キュリオ」の店長代理も任されることになる。そんな中、駅前に佇んでいた少女美里、新しい義理の妹のすずと知り合う。大介は新しい生活の中、店長代理として奔走することになる……。
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

これら最初の数日を、Standard Edition版体験版(現在はミラーサイトでダウンロード可能)でプレイ出来る。

結城 大介(ゆうき だいすけ)
本編の主人公(目鼻は描かれない)。店長である父に代わってアンティーク喫茶店「キュリオ」の店長代理となり、「ファミリー」をスローガンに掲げて働くことになる。また、業績がよかった場合、キュリオ2号店の店長就任も聞かされる。基本的には温厚でありお節介で困っている人を見逃せない性格。また、よからぬことを考えると耳を触る癖があり、それを知っているのは翠のみ。好きな映画は任侠やギャング系の映画で、翠などを連れて同じ映画を何度も見たりもしている。酒に弱く、すぐに酔いつぶれる。好きな食べ物はパンプキンプティングで、嫌いな食べ物はピーマン。実はコロッケ料理が得意である。例外はあるが親しい付き合いであっても年上の人間には敬称を付ける。
学園時代は母の死をきっかけで喧嘩に明け暮れていた時期があり問題児扱いされていた。その事は翠、香奈子、父親、榊原以外は知られていない。現在は一応更生はしているものの、時折柄が悪くなることもある。その際、学園時代の自分を無かった事にするために、学園時代の思い出は全部捨てている。
かつては香奈子と付き合っていた時期もあったが、その関係も終っている。本来、香奈子と駆け落ちをしようとしたが、何故か事前に教師などに知られており止められてしまった。その際卒業までは香奈子とは一切関わってはいけないと言われ、その後互いの誤解によって関係が修復できないほどにまでなってしまった過去がある。それ以後、女性の扱いは苦手となるが、香奈子に対しては未練が残っている。
真名井 美里(まない みさと)(声:岡田純子/野川さくら)
身長/160cm B 87(D) / W 57 / H 85
駅前で大介が偶然出会った少女。お嬢様育ちだったためものすごく世間知らずで、最初はいかがわしい仕事に巻き込まれそうになったところを大介によって助けられる。以後、大介の推薦により「キュリオ」の新人アルバイトとして働くことになる。性格は純粋無垢だが努力家であり、人懐っこく積極性もある。現在実家から家出中であり、大介の家の目の前にある「コーポ大和」というオンボロアパートに住んでいる。
バイトに入った当初はやる気はあるものの、料理どころか喫茶店と言うものを何なのかすらもわからないほどだった。しかし努力と経験を重ねるにつれどんどん上達していき、半年後には某同業者をして「接客に関してはほぼ完璧」と感嘆させる程になる。料理も初めは食べられたものではないほどだったが、練習を重ねて上達していく。最初の出会いから大介の事を慕っており、明け透けに好意を寄せて来る。
本人は気づいてなかったが、父親は真命会二代目組長。自分の縁談が進められていることを知り、自分自身結婚はまだ早いと考えたことと社会に出て仕事をしようとしたため家出した経緯がある。
結城 すず(ゆうき すず)(声:鷹月さくら/宮崎羽衣)
身長/152cm B 78(B) / W 51 / H 75 誕生日4月27日
大介の義理の妹。旧姓は「三宮(さんみや)」。母の再婚により結城家で生活をすることになり、学園に通いながら家事もこなしている。大介の事を慕っており、後に「キュリオ」でもバイトするようになる。大介を「お兄ちゃん」と呼び、一人称を「すず」と言っている。家事も仕事も勉強もきっちりとこなす大介自慢の妹。かなりの甘党。
実の父親は事故で亡くし、母親の方も仕事で忙しく構ってもらえなかったために家族愛に飢えており、大介という兄ができてからは変に控え目に甘えてくる。また、大介が他の女の子と仲良くしているのを見て嫉妬する場面もある。学園(大介、翠、香奈子がかつて通っていた)の友人からは「りんりん」と呼ばれている。本人は恥ずかしがっているのだが、かえって面白がってやめてくれない。
本来は家族の方に依存してしまう分友達付き合いが苦手で、学園からも悠太(後述)の助けがなかったら孤立してしまうのではないかと心配されていた。転校前は少し深刻だったが、現在はキュリオの「家族」や悠太の存在もあり特に問題となってはいない。ただキュリオと学園とでは態度が違うなど、解消したわけでもない。
大村 翠(おおむら みどり)(声:松下雅/新谷良子)
身長/162cm B 83(C) / W 53 / H 82
アンティーク喫茶店「キュリオ」のフロアチーフであり、掛け値なしの大黒柱。大介と香奈子の友人で、特に大介とは中1以来8年間の腐れ縁で、男女関係ない付き合いをしている。また、香奈子とは酒を飲みに行ったりもする場面もある。姉御肌で明朗快活、面倒見がよく誰からも頼りにされている。また、男勝りであるところから、よく大介から男扱いされて怒る場面もある(その際、鉄拳制裁もある)。大介と翠の罵り合いは最早キュリオの名物となっている。
主にフロアを担当しているが、他にも手先が器用で料理なども担当している。また、店長代理である大介の仕事を手伝いもしている。近い将来である2号店の料理長の座を狙っており、夜になったら榊原に料理を習っている場面もある。
中学時代から大介に好意を抱いている。その際、大介が気づかない影の部分で彼の事をずっと支えてきた。また「多分、香奈子の思ってる通り」な理由で大介と香奈子の駆け落ちを未然に防いだ張本人である。よく人に頼りにされているしそれに応える能力もあるが、内心では誰かに頼りたい気持ちもある。
続編『パルフェ 〜ショコラ second brew〜』のHPにて、ボイスドラマ「chocolat 5years ago」がダウンロード可能である。
桜井 真子(さくらい まこ)(声:鳩野比奈/阿部玲子)
身長/157cm B 97(F) / W 56 / H 84
アンティーク喫茶店「キュリオ」の定員。主にフロアを担当している。ベテランなのだが、よくオーダーミスをしてしまう。非常に穏やかな人物であり、他の人からも怒っている場面がないと言われるほど。だが、天然が入っているので人に騙されやすい。口癖は「あらあらまあまあ」。また、母性本能があり、知らない赤ちゃんや猫からも恐れられない。家族に両親の他に弟や妹がいるが、現在は家族は外国で暮らしているので一人暮らし。また、外見に似合わずプロレス好きという意外な一面もある。
橘 さやか(たちばな さやか)(声:かわしまりの/福井裕佳梨)
身長/158cm B 95(E) / W 59 / H 86
アンティーク喫茶店「キュリオ」のパティシエール。お菓子作りに力を入れているが、不器用で結構失敗などもしている。それでも残ってお菓子作りの練習を繰り返しがんばっている。極度の赤面症であり、ものすごく緊張してしまう場面もある。
家族はいなく孤児院で育てられて生活していた。親の顔も知らず、母親のみうっすらと記憶に残っている。現在はパティシエになるための専門学校を卒業した後、「キュリオ」で働き夢に向かって頑張っている。
秋島 香奈子(あきしま かなこ)(声:乃田あす実/千葉紗子)
身長/165cm B 89(D) / W 54 / H 85
アンティーク喫茶店「キュリオ」の常連客。大介と翠の学園時代からの友人。名門東津本女子大の理学部の学生であるが、普段から「キュリオ」の窓際の席で本を読んでいるため、大学にちゃんと行っているのか不明。「キュリオ」の身内同然で、あまり部外者扱いされていない。成績優秀で美人だが、物静かで不思議な雰囲気を持っている。感情を露わにすることはないが、怒った際の沈黙の威圧感は大介や翠を本気で恐怖させるほどである。
すずが結城家に来る前は、勝手知ったる他人の家と入り浸っては好き勝手、テレビすら禁止させて本を読んだりするが艶っぽいことは何もなし、と不思議な関係を繰り返していた。好きな食べ物はアップルパイと冷え切って何もつけていないコロッケロール。一度何かに没頭すると周りが見えなくなる癖がある。意外にアルコールに強い。
大介とは学園時代では恋人のような関係だったが、ある事件を境にその恋も終っている。実は大介の一歳年上。学園時代に両親の離婚や周りからのプレッシャーにより荒れていた時に大介と出会っている。その後、お互いに惹かれていったが、母親が仙台に引っ込む際に彼女を連れて行くことに反発し大介と駆け落ちしようとする。だが、その駆け落ちも失敗に終わり、酒浸りになってわざと留年する。そして互いの誤解により恋人関係も終ってしまう。駆け落ちに失敗したのも大介の裏切りによるものだと勘違いしており、その復讐のために大介に付きまとっているのだが、そのことに大介は気づいていない。今でも大介に恋心をもっている。
真ヒロインとでもいうべき存在であり、「ラスト2に翠、オーラスに香奈子を攻略すべき」というユーザーの声が多い。また、桐島沙衣里(この青空に約束を―)がWebドラマで話題にした学生時代のゼミ生は彼女だと思われる。
チロル(声:三重野亜未/徳永愛)
身長/17cm B ? / W ? / H ?
アンティーク喫茶店「キュリオ」に住む元気でお喋りな妖精。アンティーク家具に宿ったたくさんの人の想いから生まれたという。午前2時から2時半の間現れ、子供の心をもった人間のみ見ることができる。榊原と真子は声を聞いたことがあり、店長は姿を見たことがあるというが真意は不明。アンティークの妖精だけあり、皿や椅子なども会話が可能。チョコレートに見境いがなく、夜中になるとチョコを漁って食べている。また、カフェインの入った飲み物を飲むと酔っ払ってしまう。大介の事をパパと呼んでおりママと呼ばれている人間もいるが、誰かは明かしていない。また、どんな願い事でも叶えると言うが、結構なドジなので成功はしない。
大介がバッドエンド(ノーマルエンド)に進んでしまった時のみ何故か登場し助言する。その際、色々な本音をぶつけてくることもある。なお、本編での初登場は必ずバッドエンド(ノーマルエンド)の時だと決まっている。
元々は香奈子が「キュリオ」を題材にして作り出された創作上のキャラクターが実体化したもの。彼女が言っていた設定などは香奈子が考えたもので、名前をつけたのが大介だった。その事から香奈子を「ママ」、大介を「パパ」と呼んでいる。彼女の性格は香奈子が本当になりたかった自分であり分身に近いものがある。姿を見せないものの、大介と香奈子が関係を戻して結ばれてくれることを望んでいる。香奈子ルートでは姿が見えなくても二人を援助している。また、彼女の悪口を言った際、容赦なく攻撃を加えてくる。
『まるねこ 戯画スペシャルドラマCD '06』『フォセット』で、三田村茜(この青空に約束を―)と共にちょっとワケあり、ハイテンションかしましコンビとして司会進行をやったりしている。

サブキャラクター
榊原 宏幸(さかきばら ひろゆき)(声:一条和矢)
アンティーク喫茶店「キュリオ」の料理長。通称バラさん。穏やかな口調に常に笑顔。料理の腕はフレンチシェフとしてもパティシエとしても一流であり、何度も他の店から大枚の勧誘を受けているが全て断っている。店長(大介の父親)に勧誘される前の経歴は一切不明な底の知れない人物(ヤクザ組織の真名会の事を知っていたり、睨みを効かせるだけでヤクザの吉田がビビる程なので元は裏社会に詳しい強者ではないかと思われる)。パルフェの玲愛ルートで翠とともに本店で少しだけ登場する。またフォセットのシナリオ「脱カトレア記念日」でも名前だけ登場している。
雨宮 悠太(あまみや ゆうた)(声:石川大介)
すずのクラスメート。クラス委員であるためすずをクラスに馴染めるように働きかける一方で、すずの事が好きなので積極的にアプローチをかけてくる。そのため大介には評価されつつも邪険にされている。すずルートでは香奈子との交際を周囲に邪魔された苦い過去と境遇を重ね合わせた大介にすずとのデートの許可をもらうが…。
佐倉澄香(さくら すみか)(声:森嶋仁美)
家庭用版のさやかルートのみ登場。グルメ雑誌「プルミエール」の編集長。さやかの取材のために「キュリオ」に訪れる。優しい人物で、さやかが失敗した時も笑って励ました。
真名井 昭雄(まない あきお)
美里ルートのみ登場。ヤクザ組織真名会の幹部で美里の父親。怖い外見だが娘の事を溺愛している(自分がヤクザであることは秘密にして美里を育ててきた)。
吉田(よしだ)
美里ルートのみ登場。昭雄の部下。喧嘩慣れをしており大介はボコボコにされる。
笹尾(ささお)
日本史の教師ですずのクラスの担任。大介が学園にいた時は生活指導もしており、不良だった大介には散々手を焼いていた。
結城 誠介(ゆうき せいすけ)(声:上別府仁資)
大介の父親にしてキュリオの店長。大介とは学園時代からいろいろあったため、親子というよりも悪友に近い感覚で話している。結構いい加減で悪ノリな人物だが、店の売り上げなど店長としてのスキルが高く、そこは大介も渋々ながら認めている。現在は再婚相手(すずの母)と共にヨーロッパ旅行に出かけており、大介に計画中の2号店を任せるために本人に内緒で店長代理に指名していた。
花鳥 玲愛(かとり れあ)(声:松永雪希)
「Re-Order」の追加シナリオで初登場する、続編「パルフェ 〜ショコラ second brew〜」のヒロイン。本編終了後の夏休みに学生バイトとして入店し、目覚しい活躍(真子曰く「入ってきた時から二人前」)により2年後にはキュリオ3号店のフロアチーフとなる。翠をして「あたしより優秀」と言わしめる程だが、「キュリオ始まって以来の堅物」という但し書きも付く。3号店のお向かいにあるアンティーク喫茶店「ファミーユ」を目の敵にしている。

2009年01月27日

F-15J/DJはF-15C/D型を原型

F-15J/DJはF-15C/D型を原型とするがTEWSを提供されなかったためレーダー警報受信機と機内搭載電子妨害装置「ALQ-135」は国産品を開発し、チャフ・フレアディスペンサーを個別に輸入してJ/TEWSを構成し代替している。このためアメリカ空軍向けF-15では左の垂直尾翼先端に内蔵され非対称となっているIRCM装置が取り付けられていないため左右対称となっている。
なお、独自装備の一つとしてBADGEシステムから時分割データを受信する日立製作所製「J/ASW-10」を搭載している。
1992年(平成4年)10月17日に第305飛行隊の72-8884号機が訓練中に操縦不能となり、パイロットが脱出時にキャノピーに頭部を強打し死亡した事故の対策としてキャノピーブレーカーを追加装備している。
電子機器類の技術移転が少なかったこともあり、国内メーカーからは割に合わないとの不満もあった。一方で、F-15とパッケージで国産化されたAIM-9LをF-4EJ及びF-4EJ改にも装備できるようになったため、用兵上ライセンス生産で得たものは大きかったとする向きもある[18]。兵装についてはF-15C/Dのものに加え、近年では国産ミサイルである90式空対空誘導弾(AAM-3)と99式空対空誘導弾(AAM-4)を搭載する。
三菱による生産中に何度か機体仕様が変更されており、大まかに分類すると2種類のタイプに分かれる。一般に導入初期の機体をPre-MSIP機、導入中期から機体をMSIP機と呼称している。
Pre-MSIP
1981年(昭和56年)から1984年(昭和59年)までに調達した機体のことを便宜的にPre-MSIP機と呼称する。該当機体は、F-15J 97機(02-8801号機から82-8898号機)とF-15DJ(12-8051号機から52-8062号機)である。 F-15Jの42-8832号機は1991年(平成3年)に地上滑走中の暴走事故により機首部を損傷したため、三菱重工業に陸送され、MSIP機として修理再生され、後に小松基地306飛行隊所属となった。
チャフ/フレアディスペンサーは1983年(昭和58年)に調達された機体から装備されている。
J-MSIP(Japan-Multi-Stage Improvement Program)
日本多段階能力向上計画。米国のMSIPと同様、日本でも調達中に独自の能力向上を実施した。1985年(昭和60年)以降に調達された機体(F-15Jの82-8899号機以降、F-15DJの52-8063号機以降)に適用される。またPre-MSIP機にも順次適用され、トラブルなどで緊急に定期修理(IRAN)入りしたPre-MSIP機にも施されている(正確な数は不明)。MSIP機の最低保有数は105機(J型の損失機はすべてPre-MSIP機)。
Pre-MSIPとの違いは以下の通り。
セントラルコンピューターの処理能力向上と新型空対空ミサイル(AAM-4)搭載のための火器管制装置のアップグレードに向けた電気配線の追加。
兵装コントロールパネルをアナログ式からディスプレイ式に変更。
F-15J 42-8944号機以降、F-15DJ 52-8088号機以降の機体に、エンジンをデジタル制御化して耐久性が向上したF100-IHI-220Eへ変更。
F-15J 62-8958号機以降にはJ/APQ-1後方警戒レーダーを追加装備。
F-15J/DJ新型空対空ミサイル対応改修
当初はF-15J/DJのMSIP機の定期修理(IRAN)時に行われていたが、最近ではMSIP機を対象とした近代化改修計画に組み込まれている。
改修内容は、AIM-120Bの試験運用時に製作されたプログラムのインストールと搭載インターフェイスの変更により、AAM-4とAIM-120双方の運用能力を追加するもので、具体的な改修機の数は公表されていない。
改修機の外見での識別点は以下の二点だが、機体の近くに寄ってU-106/Aを確認する以外の有効な確認方法がないため、識別は困難である。
St.3及びSt.4、St.6及びSt.7のAU-106/Aミサイルランチャー中央部の製造メーカー名プレートを前方に移動し、プレートのあった位置のやや後方にコネクターを追加。
ミサイル取り付けリング中央部のワイヤーの除去。
対地攻撃能力について
防衛庁(当時)による昭和53年3月4日付け「F-15の対地攻撃機能と空中給油装置について」では、「ある程度の対地攻撃機能を付随的に併有しているが、空対地誘導弾や核爆撃のための装置あるいは地形の変化に対応しつつ低空から目標地点に侵入するための装置を搭載しておらず、この機能は、主として目視による目標識別及び照準をおこなうことができる状況下において、通常爆弾による支援戦闘を行うための限定されたものである。
なお、F-15は、対地攻撃専用の計算装置などを有しておらず、対地攻撃の機能に必要な情報処理などは、要撃戦闘に用いられる計算装置を使用してなされるものである。」としている。
近代化改修
大きく分けて、F-15J/DJのJ-MSIP機(J×53機:899 - 965、DJ×36機:063 - 098)を対象とした近代化改修計画と、Pre-MSIP機を対象にした近代化改修計画とに分けられる。
J-MSIP機の近代化改修
J-MSIP機の近代化改修計画は三菱重工業を主契約としている。当初のJ-MSIP機の近代化改修計画では、改修の進捗状況によって形態一型と形態二型に分けられ、平成17?21年度対象の中期防衛力整備計画の期間中に合わせて26機を量産改修する予定だった。
しかし、米国のF-22の輸出規制措置により2008年に航空自衛隊のF-X選定が先送りされると、F-4EJ減勢による防衛力低下を補う必要が生じた。そこで次期輸送機の獲得を先送りして割り当てた予算で、形態二型の改修の一部を前倒し適用することになった。
航空雑誌等ではこれらの改修機のことを一くくりに「F-15J改」と呼んでいる。
形態一型
改修内容
形態一型機に当初計画通りに実装された改修内容。
セントラルコンピューターの再換装
レーダーを従来のAPG-63から改良型機械式アンテナアレイのAPG-63(V)1へ換装。((v)3への再改修も容易。)
空調設備と発電装置の改良
AAM-4/4改の運用能力獲得(試改修初号機には実装されず)
通信装置への電波妨害対処機能付加(試改修初号機には実装されず)
飛行記録装置(フライトデータレコーダー)の追加(試改修初号機には実装されず)
射出座席の改良(試改修初号機には実装されず)
戦闘機データリンク(FDL・戦術データリンクJTIDS)の搭載に向けた空間と配線の確保(試改修初号機には実装されず)
進捗状況
1997(平成9)年 システム設計に着手
1998(平成10)年 細部設計開始
1999(平成11)年 一部機材の購入を開始
2000(平成12)年 レーダーやセントラルコンピュータ等の主要機材を購入
2002(平成14)年 試改修作業開始。三菱へF-15J試改修初号機(12-8928)引き渡し
2003(平成15)年 7月24日、試改修初号機初飛行。
10月21日、飛行開発実験団へ再納入。技術的追認を実施
2004(平成16)年 2機分の改修予算取得
2005(平成17)年 4機分の改修予算取得
2006(平成18)年 2機分の改修予算取得
2007(平成19)年 F-2一括取得のために予算取得見送り
9月12日の量産改修初号機(12-8948)納入後、年度内に2005年度予算取得分までの計6機を納入

形態一型 IRST(赤外線捜索・追跡装置搭載実験機)搭載実験機
形態二型に進む前の実験機としてF-15J 試改修初号機(12-8928)で搭載実験が行われている。
2008年度予算による前倒し改修
改修内容
形態一型に形態二型から前倒した以下の改修内容を加えたものとなる[19]。
AAM-4,AAM-5の運用能力獲得(JHMCSの搭載は不明)
戦闘機データリンク(FDL・戦術データリンクJTIDS)の搭載
進捗状況
2008年(平成20年):20機の予算を取得。この一括調達により約168億円の経費を節減[20]。2009年度予算の概算要求で22機の取得を提示している。予算成立は2009年3月の見込み。中期防期間内で定められた26機を超過するため中期防を改訂し48機とした。
形態二型

形態二型への改修を受けたF-15J(2008年)
エアインテーク部分にアンテナフェアリングが備わる改修内容
形態二型機で当初計画どおりに実装されると見られる改修内容
IRST(赤外線捜索・追跡装置)の搭載
チャフ・フレアディスペンサをAN/ALE-45JからAN/ALE-47へ換装
ヘルメット装着式表示装置(HMD・・・AAM-5)への対応
統合電子戦システムの搭載
進捗状況
2002年(平成14年):開発開始。
2007年(平成19年):3月8日に形態二型試改修初号機(32-8942)を飛行開発実験団に再納入し実用試験を開始し、一連の試改修事業を年度内に終了した。
Pre-MSIP機への自衛隊デジタル戦闘システム(JDCS(F))の搭載
Pre-MSIP機に新開発する「自衛隊デジタル戦闘システム(JDCS(F))」を搭載して、J-MSIP機同様に戦闘機間や自動警戒管制システム(JADGE)でデータリンクを構成する計画である。J-MSIP機が搭載するLink-16端末をPre-MSIP機に搭載しようとすると、機体の残余容積やデータ処理能力の不足により改修期間と費用が莫大なものとなるため、新規にJDCS(F)を開発することとしている。JDCS(F)はLink-16端末の半分の経費で搭載可能とされ、F-2にも搭載される予定である。2009年から2012年までで試作し2011年から2013年まで試験を実施する。[21]。
転用計画
F-15J偵察機転用
防衛庁(現防衛省)は2004年(平成16年)12月にRF-4E/EJ偵察機の後継機として、Pre-MSIP機のF-15Jを使用した試作改修作業を2005年(平成17年)度からの中期防衛計画で行う予定であると公表した。これはRF-4EJと同様、外装式偵察ポッドの運用能力を追加する改修となる。
10?12機程度を改造配備する予定であるが、防衛大綱による作戦機体数の削減(作戦機の30機程度の定数減)のため、現有RF-4E/EJをすべて置き換えるわけではない。RF-4EJの寿命が先に尽きるがこの代替ではなく、続いて老朽廃止となるRF-4Eの代替としての配備となる見通しである。
また、防衛省は独自開発を続けていた無人偵察機(UAV)を平成21年度に導入すると発表した。この無人偵察機の搭載母機としてRF化されたF-15Jが使用されるものと見られる。[要出典]
F-15電子戦機転用
航空自衛隊ではEC-1やYS-11EAを電子戦機として保有している。近年の作戦実行の上で不可欠な機種であるが、いずれも老朽化している上に数が少なく速度も遅いため戦闘機と組み合わせた作戦に困難があるため航空幕僚監部でF-15のPre-MSIP機を電子戦機に転用する案を検討している。
防衛省技術研究本部は2008年(平成20)より「戦闘機搭載型電子防御装置」の開発を始めるとした。計画では平成20年度から平成24年(2012年)度末にかけてシステム設計と母機改修設計を実施し装置一式と試験装置一式を試作する。また平成22年(2010年)度から平成25年(2013年)度にかけて運用環境下での性能確認試験を行う。「戦闘機搭載型電子防御装置」は600ガロン増槽と同じ大きさと形状を持つポッドに収めて母機の飛行性能への影響を避ける。
配備基地

那覇基地第83航空隊第204飛行隊所属のF-15J(2007年9月百里基地にて)2008年現在、8飛行隊及び飛行開発実験団でF-15J/DJが運用中である。冷戦下は対ソビエト連邦のために北海道および日本海側の防衛を重点に置いてきたが、21世紀に入ってからの中華人民共和国の軍事的台頭への懸念に加え、那覇基地で運用されているF-4EJ改の退役が迫っていることから、平成21年度1月に百里基地に所属していた第204飛行隊を那覇基地に移転配備。同時に百里基地に転属するF-4EJ改を将来F-Xに更新するので、中長期的には首都圏の防空力も向上するものとされている。
千歳基地: 第2航空団 - 第201飛行隊、第203飛行隊
百里基地: 第7航空団 - 第305飛行隊
浜松基地: 第1術科学校
小松基地: 第6航空団 - 第303飛行隊、第306飛行隊
岐阜基地: 飛行開発実験団
築城基地: 第8航空団 - 第304飛行隊
新田原基地: 飛行教導隊、飛行教育航空隊 - 第23飛行隊
那覇基地: 第83航空隊 - 第204飛行隊

喪失事故
撃墜事故を含めて空自ではF-15を合計11機喪失している。特に最初の10年で5機を失っている。
発生年月日 喪失 事故状況 被害
1983年10月20日 202飛行隊DJ型 12-8053 夜間訓練中 2名殉職
1987年3月13日 204飛行隊J型 42-8840 要撃訓練中のバーティゴによる墜落 1名殉職
1988年6月29日 303飛行隊J型 22-8804,22-8808 ACM訓練中 2名殉職
1990年7月2日 204飛行隊J型 52-8857 夜間要撃訓練後 1名殉職
1991年12月31日 201飛行隊DJ型 12-8079 小松飛行場着陸進入中の燃料漏れによる爆発 1名負傷
1992年10月27日 204飛行隊J型 72-8884
305飛行隊貸出 帰投中の操縦不能 1名殉職
(脱出時にキャノピーで頭部強打)
1993年10月6日 202飛行隊DJ型 82-8064
飛行教導隊貸出 燃料系統不良 2名救出
1995年10月6日 303飛行隊J型 72-8891 小松飛行場離陸中エンジントラブルで中止後滑走路外で火災 1名自力脱出
1995年11月22日 303飛行隊J型 52-8846 ACM訓練中、僚機(62-8870)の誤射したAIM-9により墜落。
2007年時点でF-15全生産機中唯一の航空機による被撃墜 1名脱出
2008年9月11日 304飛行隊J型 72-8883 電源系統の不具合 1名脱出
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

飛行停止
2007年(平成19年)11月2日にアメリカ合衆国ミズーリ州で、同州空軍に所属するF-15Cが空中分解し墜落した。このためアメリカ空軍は、11月4日に実戦参加機を除くF-15系全機を機体構造の点検のために飛行停止とした。連絡を受けて防衛省も、11月5日には配備しているF-15J及びDJ全機を飛行停止とした。墜落事故発生による原因究明までの間に同型機が飛行禁止となる事は珍しいことではないが、この時はF-2を飛行停止としていた[22]事も重なり、同20日のF-15の飛行停止解除までの間、通常配備の日本の防空機はF-4EJ改だけとなっていた。
能登半島沖不審船事件
1999年3月23日に発生した能登半島沖不審船事件の真っただ中に北朝鮮の羅先から出撃したMiG-212機を上空警戒中のE-2C早期警戒機が捕捉したために小松基地所属のF-15Jに緊急発進が発令されたが、MiG-21は防空識別圏手前で引き返した。このMiG-21の出動は日本側と直接の接触はなかったものの不審船追跡に対する威嚇と推測された。
F-4EJ改の後継機関連
防衛省 (旧 防衛庁)は2005年(平成17)8月より、航空自衛隊のF-4EJ改の後継機としてロッキード・マーティンF-22 ラプター、ロッキード・マーティンF-35 ライトニングII、ボーイングF/A-18E/F スーパーホーネット、フランスのダッソー・ラファール、国際(英独西伊)共同開発のタイフーンと共に、F-15FX(F-15E ストライクイーグルの日本仕様)を更新機種候補としているとされる。公式な決定はなされておらず、未だ情勢は不明である。
今後
航空自衛隊ではF-15を将来に渡り運用するため、現在搭載機器のアップグレード等の近代化改修を実施している段階で、最終的に戦闘能力は第5世代ジェット戦闘機にも対抗し得る能力を持つことになる。機体寿命については、航空自衛隊の年間飛行時間から考えると初期生産分の機体が2025年あたりに基本機体寿命の8000時間を迎え最終退役の時期となる。
しかし、アメリカ空軍のC/D型が一部8000飛行時間を迎え更に飛行可能ということが判明し、飛行可能時間が8000時間から10000時間までに延長された。また、航空自衛隊のF-Xの選定作業も停滞状態にあるため、将来F-Xが数を伸ばしF-15を凌いで主力戦闘機の座に就くまで、F-15は今後も航空自衛隊の主力戦闘機として任務に就くことになる。

空中給油中のサウジアラビア空軍所属のF-15サウジアラビア空軍は長くイギリス製戦闘機、及びイギリス型の部隊編成を行っていた。当時は35機のBAC 167 ストライクマスターや42機のBACライトニングを保有していたが、1977年にライトニングの後継機選定を発表した。最終的にはF-14とF-15の一騎討ちとなり、迎撃戦闘機であるライトニングの後継機に、艦載機であるF-14よりは制空戦闘機であるF-15が適切であるとしてF-15の導入を決定した。導入はアメリカ側で「ピースサンI(Peace Sun I)」と呼ぶ有償軍事援助計画で行われた、
発注した機体はC型が47機にD型が15機の計62機だったが「エジプト・イスラエル平和条約」の合意(キャンプ・デービッド合意)を背景としたイスラエル周辺諸国の軍事的圧力の低下を目指し、サウジアラビアも保有する戦闘機の総数に60機の制限を受け、C型46機、D型16機に変更された。発注分から余った2機はマクドネル・ダグラス社が保管し、事故等での消耗分の補充にあてることとなった。引き渡しは1981年から行われ、アラビア半島の西岸に展開する第6飛行隊や東岸のペルシャ湾に面するダーランのキング・アダブル・アジズ基地の第13飛行隊、南部のカミス・ムシャイト空軍基地の飛行隊の計3個の飛行隊に配備され、同年9月より運用を開始している。1989年にはF-15の生産ラインの閉鎖を目前に、定数を維持するためC/D型12機の追加発注を行った。これらもマクドネル・ダグラス社が保管を行っている。
1995年からは湾岸戦争中に自国内の空軍基地をアメリカ軍に提供する見返りとしてF-15Eの購入を要請した結果、サウジアラビア向けのF-15Sを調達している。
機体
輸出に際してイスラエル同様にある程度の能力の縮小を受けた。またサウジアラビア側が希望したコンフォーマルタンクの調達数には制限が設けられ、かつ保有数も上記の様に60機との制約を受けた。
配備基地
キング・アダブル・アジス空軍基地 - 第13飛行隊
プリンス・ファハド空軍基地 - 第6飛行隊
カミス・ムシャイト空軍基地
実戦参加
イラン・イラク戦争中の1984年6月5日にサウジアラビア領空に接近したイラン空軍のF-4をアメリカ空軍の早期警戒管制機がレーダーに捉えた。ペルシャ湾を航行するイラク行きタンカーへの攻撃を意図するものと判断したサウジアラビア空軍は2機のF-15を差し向ける。2機のF-15はF-4が進路変更の意思がないとしてスパローにより2機を撃墜し、これがサウジアラビア所属F-15の初戦果となった。その1時間後には10を超すイラク軍機の接近をレーダーが捉えたためサウジアラビア空軍はそれに匹敵する数のF-15を緊急出撃させた。最終的には30以上の目標をレーダーが捉えたがイラク軍機が突如反転したため戦闘は回避された。結果的にアメリカにおける主力戦闘機F-15がその前の主力戦闘機のF-4を葬り去るという興味深い戦闘だったといえる。
湾岸戦争では「砂漠の嵐作戦」に参加したF-15がイラク領内でイラク空軍のミラージュF1を2機撃墜した。湾岸戦争において、アメリカ空軍以外で唯一の空対空撃墜となった。

各型および派生型

基本型
F-15A

F-15A初期量産型。1972年から1979年までに384機製造[23]。アメリカ国内外の旧式化したF-104・F-106・F-4等を代替。C/D型導入後は戦術訓練航空団等の教育・訓練部隊に配備。
F-15B(旧称TF-15A)
F-15Aの複座量産型。1972年から1979年までに61機製造[23]。機種転換訓練用だが実戦にも対応。内蔵電子妨害装置を省略し、内部燃料タンクを小型化して後部座席を設置。操縦システムは前席後席それぞれに独立した系統が備わっており、後席が操縦を行う事も可能。ただし、計器盤は備わっているものの、レーダーやエンジン始動関連のパネル、兵装操作パネルなどは無い。
F-15C

F-15Cとコンフォーマルタンク生産第4040号機以降となるPEP2000(Production Eagle Package 2000)適用機。1979年から1985年までに483機製造[23]。外見上はF-15Aと大差はない。
アメリカ空軍は、F-15A/Bの実用テスト期間中に燃料と兵装のバランスを最適化するという評価法を適用した結果より燃料搭載量の増強を要求した。特に機内燃料については2,000ポンド(約1,100リットル)の増加により撃墜可能性も戦闘行動半径も約二倍となるしている。その対策案がPEP2000で、機内燃料の増加とコンフォーマル・パレット搭載のための内部配管の追加、重量増対策としてのタイヤとブレーキの強化を行うものである。
PEP2000自体での採用は見送られたが、マクドネル・ダグラス社が自主開発したFAST(Fuel And Sensor Tactical)PACKと呼ばれるコンフォーマル・パレットは6.43平方メートルの使用可能容積を持ち、増槽とした場合は両側でドロップタンク2.5本となる約5,680リットルの燃料を収納する。着脱は約15分の地上作業で済むが空中投棄はできない。クリーン状態の抵抗を1とするドラッグ係数はマッハ0.9以下ではフィレット類似の整流効果により1を下回りそこからマッハ1.1前後での1.15まで漸増した後に横ばいとなる。ドロップタンクのマッハ0.8からマッハ1.0直前まで急増した後マッハ1.2までは減少し横ばいとなる特性と比べると巡航性能への寄与は大きいといえる。しかし、F-15Cでは機内燃料量がドロップタンク3本分を超え、進出にドロップタンク、対戦闘機戦闘と帰還に機内燃料を使用できることとなった。このため十分な燃料の確保ができるとし、空中投棄できないコンフォーマル・タンクの実戦での運用回数は少ないという。派生型のF-15Eでは戦闘爆撃機として長距離任務が主となるのでより多くの燃料搭載と巡行域での抵抗軽減の利点を認めてコンフォーマルタンクを標準で装備する。
もっとも多く生産されたタイプであり、アメリカ国内及び在日米軍・在欧米軍と多くの部隊で配備・運用された。
F-15D
アメリカ空軍のF-15DF-15Cの複座量産型。1979年から1985年までに92機製造[23]。B型同様教育・訓練用だが実戦にも対応。FAST PACK搭載能力を持つ。
F-15J
日本向けのF-15C。1981年から1998年までの期間に165機製造。C型をベースとしているが、航空自衛隊はFAST PACKを保有しない。
F-15DJ
F-15Jの複座型。1981年から1999年までに48機製造。
RF-15
F-15の偵察機型。プロトタイプF-15E(複座型原型2号機:71-0291)の機体を改修したデモンストレーター。偵察用のFAST PACKを装備する。

派生型
F-15E

F-15B(71-0291)を改造して製作されたF-15E試作機
F-15の制空迷彩から一転、グリーン濃淡のカラーリングとしているF-15B試作機をベースとした戦闘爆撃機。制式採用にあたり機体の約60%を再設計してチタニウムを多用した軽量化と構造強化を行った。プロトタイプでのグリーンを基調とした暗い迷彩塗装は制式化に際して夜間・悪天候飛行中に効果的な暗灰色へと変更している。

前面からのF-15E (converted F-15B, S/N 71-0291).
背後からのF-15E (converted F-15B, S/N 71-0291).
爆装が施された試作機

F-15 S/MTD
マクドネル・ダグラス社(当時)が中心となり複座型原型1号機を改修したNASAの実験機。

計画機
F-15N
F-15の開発段階において、1971年7月にアメリカ海軍が提出を求めた海軍向け(艦上戦闘機)F-15。AIM-54の運用能力を持ち、主翼の折り畳み機構を持つとした。しかし、重量及び抵抗の増加による性能低下が懸念され、同時期にグラマン社のF-14 トムキャットが飛行試験段階に達していたため、構想のみで終わる[24]。海(海軍)のイーグル「シーグル:Sea Eagle」の愛称で呼ばれた。
F-15X
計画の遅滞が問題となっていた先進戦術戦闘機の代替案。空力的に若干洗練し、電子機器類を最新のものに換装させたF-15[25]。
F-15XX
F-15Xに次ぐ、先進戦術戦闘機の代替案。F-15Xを更に洗練し、エンジンをATF計画で開発されたプラット・アンド・ホイットニーのYF119-PW-100、またはゼネラル・エレクトリックのF100のIPEにするとした。アビオニクス類も一新される。機体、エンジン共に制式化の目処がついたことにより撤回される[25]。

スペック
F-15C
F-15三面図乗員: 1名(B/D/DJ型は2名)
全長: 19.43 m
全幅: 13.05 m
全高: 5.63 m
翼面積: 56.5 m2(C)
空虚重量: 12,973 kg
最大離陸重量: 30,845 kg
動力: F100-PW-220ターボファンエンジン(A/B:10,640 kgf)× 2
最大速度: M2.3 / M2.5(M2.3以上は1分以内の制約)
巡航速度: M0.9
航続距離: 3,450 km(フェリー)、 4,630 km(増槽)以上、5,750km(CFT装着)以上
実用上昇限度: 19,800m(65,000ft)
固定武装: M61A1 × 1 (6砲身 口径20mm 装弾数 940発)
製造単価、約3,000万ドル